ヘルプ

逆井城 大手橋(茨城県坂東市営 逆井城跡公園)

  • 132

写真: 逆井城 大手橋(茨城県坂東市営 逆井城跡公園)

写真: 逆井城 入江(茨城県坂東市営 逆井城跡公園) 写真: 逆井城 南西井楼矢倉・西南(茨城県坂東市営 逆井城跡公園)

――mixi記事コピペ――2016年01月13日 22:21

16.01.13.
別称、逆井古城、飯沼城
築城年、享徳年間
築城主、逆井常宗
城主、逆井氏、後北条氏
廃城年、不詳

坂東市HP→ http://bandokanko.jp/modules/pico/index.php?content_id=29
(wiki→)北側に西仁連川用水を臨み、西に入江だった蓮沼が存在する台地の先端上に位置している。西仁連川は江戸時代の干拓の際に沼の西側外周部が掘削されたもので、干拓前は飯沼という南北30kmに広がる沼が城の北方に存在していた。この南北に細長い飯沼は逆井城の北で東西に蛇行しており、城はこの沼の歪曲部に位置し沼に囲まれた「後堅固の城」でもあった。
北崖を飯沼が洗い堅固なため、本丸が最北端に位置している。南側に曲輪が連なり、大軍も収容できるように大規模な構造となっている。(wiki←)

小山義政5男 常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、この城を居城としたとされる。

天文5(1536)年3月3日、古河公方方 逆井氏3代常繁は、後北条氏と戦争となった。後北条方 大道寺盛昌により逆井古城は落とされ、逆井氏は滅亡したと伝えられている。
※この歴史は誤りとほぼ確定的。後北条氏の下総侵攻時期、落城時期が合致しない。

天正5(1577)年、玉縄城主北条康成(やすしげ。初名氏繁。北条綱成嫡男)が大鋸引を相州藤沢より呼び寄せ飯沼城は新たに普請が行われている。
逆井の地は下野・常陸方面への侵攻の最前線だったと考察される。後北条氏最新の技術が投入された飯沼城には康成が入り、佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。
天正6(1578)年、康成は逆井城で没し、その後を子の氏舜(うじとし。氏勝実兄)が継いだ。
(風魔小太郎の子、風魔孫右衛門など忍者集団300人が拠っていたとも(関八州古戦録))。
※氏舜(うじきよとも)はあまりにも記録が少なく、実在さえ疑問視されていた。近年まで氏勝が家督を継いだと考察されていた。

天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏滅亡で廃城になったとされる。

アルバム: 公開

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。