ヘルプ

千住宿 関札場跡

  • 161

写真: 千住宿 関札場跡

写真: 橋戸稲荷神社(千住橋戸町)1 写真: 奥の細道 松尾芭蕉像

旧日光道中 千住宿1(足立区)
2013年10月14日 00:49
●千住宿――
せんじゅしゅく。
武蔵国足立郡、豊島郡の荒川(現 隅田川)曲流部に設置された宿場町。日光街道および奥州街道の初宿で、江戸四宿のひとつ。水戸街道はここから分岐していた。

荒川北岸部にあった足立郡千住村は、古くから水上交通の要所とされていた。
戦国時代。享徳の乱で下総国を追われ、武蔵石浜城へ拠点を移していた千葉氏嫡流(武蔵千葉氏)がこの一帯を支配していた(扇谷上杉家配下〜後北条家配下)。
小田原の役後、徳川家康が関東へ移された。
文禄3(1594)年、千住大橋の架橋を機に、急速に発展する。
慶長2(1597)年、人馬継立の地に指定、千住町とされた。
寛永2(1625)年、五街道整備にあたり、日光・奥州両街道の初宿に指定される。地子免除の代わりに、伝馬役・歩行役を負担することとなった。
慶安4(1651)年、宿場の外れに小塚原刑場が設置。
万治元(1658)年、掃部宿・河原町・橋戸町が、その2年後には荒川対岸の豊島郡側の小塚原町・中村町が加宿された。
寛文7(1667)年、付近の土地が回向院に与えられ、子院が建てられ、刑死した人の埋葬と供養を行うようになった。
元の千住宿は1〜5丁目に分けられて本宿、最初に追加された3町は新宿、対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれた。
千住宿は、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展する。
享保年間、野菜市場や陸付米穀問屋と呼ばれる地廻り(地元近隣産)の米を専門に扱う米問屋街が形成された。
天保14(1843)年、“日光道中宿村大概帳”によれば、千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていたとある。宿内の家数は2370軒、人口は9456人。江戸四宿最大の宿場町になっていたようだ。

明治維新後、千住大橋を境に再び南北に分離され、現在では北側は足立区、南側は荒川区に属している。


「●越谷3/旧日光道・御殿・宿場・伝馬制度/」
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000001633525&owner_id=32815602

「●南千住回向院・延命寺 小塚原刑場/吉田松陰・橋本佐内/家紋/」
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000012064019&owner_id=32815602
御照覧あれ。


この作成方法をあらかじめ決めていれば、南千住も同様にしたのだけど…f(-_-;
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2007863405&owner_id=32815602


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1Rm79KFD1ROXpubMspS2px71HndVM5btU&usp=sharing


くぐってすぐ、分岐の標柱あり↓
※別筋

大師道・熊谷堤(足立区・墨堤通)
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000087224097&owner_id=32815602
2013年10月22日 22:28
●熊谷堤跡――
天正2(1574)年、北条氏政は、荒れ狂う大川の左岸を現 向島・浅草まで(隅田堤)自然堤防に手を加えて土手を築いた。
これが熊谷堤。熊谷から千住までを言い、荒川堤とも言う。太田道灌によって完成していたという説もある。

・熊谷堤跡の道は大師道とも呼ばれる。西新井の御大師さんへの道筋。

・昭和5年に荒川放水路(赤羽岩淵から江戸川区葛西)完成。



※おまけ――
この長大な土手を利用して、江戸の水害を軽減しようと画策したのが2代秀忠。今戸から箕輪(三ノ輪)に向けて全長860m、全高3m、土手上道幅7.2mの普請を諸藩に命じ、そうして築堤されたのが日本堤。この名前は近代に訛っていると思われ、由来は不詳。現 山谷堀(さんやぼり)公園から土手通りにあたる。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2007857032&owner_id=32815602
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2007857045&owner_id=32815602

こうして“江戸の町”は水害から守られるようになった。

想像に難くありませんね。荒れる大川、暴れ川。大雨、増水、激流………荒川の及ぼす水害が江戸城北・荒川上流へ偏らされたらどうなるか。



※「越谷3/旧日光道・御殿・宿場・伝馬制度/」より抜粋――
“荒川”は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり、関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(現越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾に注ぐ川だった。
「荒」という名の通りの暴れ川で、しばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が“今の”綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した。現 荒川は元入間川。


元荒川は埼玉県を流れる利根川水系で中川支流の一級河川で、荒川と利根川が合流していた時代の荒川の本流。
1629年、荒川が和田吉野川、市野川を経由し、入間川に付けかえられた為、本流から切り離された。
熊谷市佐谷田の荒川東岸付近の湧水に源を発する。

洪水、浸水被害が、武蔵の野辺の家畜や農作物を悉くダメにしていたせいである…。治水は成功したかに見えるが……。

アルバム: 公開

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。